お店の歴史

小さなしあわせ食堂

 ニッポンという株式会社が世界に向け高々と帆を上げた頃、その時代と共に追い風に乗ろうとここ守山銀座商店街で勝負を賭けた一軒の洋食屋があった。

レストラン「カシトラ」の悲喜こもごもここにあり・・・・

 

創業者、虎吉の菓子屋がパン屋になったある日

店名を聞いてその意味を尋ねる客は少なくない。実はこの店、初代北川虎吉が飴や菓子を売る店を開いたのが始まり。その商いと寅年生まれに因んだ虎吉のトラを合わせた、由来型の屋号である。順風満帆だった家業も戦争で休業を強いられ、現店主北川孝司の父、2代目北川栄四郎が出兵した。そして家業の転機が訪れたのは、この栄四郎が戦地から帰還した昭和21~22年頃のことだった。「戦場では決して敵に悟られてはならないと、煙の立つ飯盒すらままならない条件下で、敵兵には気軽に口にできる謎の食物が分け与えられていた」栄四郎のそんな疑問の正体が後に、パンだと分かると、栄四郎は菓子屋の看板をあっさり下ろして、長男英次とパン屋を営みはじめる。まだ家長制度を重んじる時代、店を継ぐのは長男だとばかり、父栄四郎が次男孝司に勧めたのはうどん屋の道だった。

 

これからの時代は欧米化。そう信じて始めた洋食屋

父の助言より自分の方が先見の明がある。そしてこれからは必ず欧米文化の波が来る。」孝司が信じたのは東京オリンピックや1億総レジャー時代、という社会背景だった。

京都の老舗洋食店の料理人より料理の基礎を学び、「守山銀座商店街」が誕生する昭和39年、抽選でこの一画に店を構える権利を得た。ところが開業して3年間のの入りはというと、孝司さんの意に反した景況だった。理由は極めて簡単、来店客のほとんどがナイフとフォークの使い方を知らなかったのだ。父のパン屋を手伝いながら、孝司はその時を待った。

 

待ち望んだ外食消費ブームの到来

昭和40年を境に我が国は輸出大国へと転じ、日本経済は国際舞台に躍り出る。国民の所得水準も向上し、洋食スタイルも定着し始めた。昭和44年、近所の紡績工場が羽振りを利かせている頃、接待交際費で高額領収書を切る社員で店はにぎわったという。1週間もたたないうちに近江牛のサーロインステーキが10kgも出たというから、もはや洋食屋の域ではない。こうなると名物のカレーやハンバーグ・オムライスが評判になるには時間を要しなかった。3~4か月も手塩にかけて仕込まれたデミグラスソースは、それらの料理に遺憾なく発揮された。地元が生んだ名士、かの宇野宗佑も孫と訪れ、ここの味を楽しんだという。今も、昔の客が時折訪ねては、変わらぬ味にほっと安堵する。   

                                       (京都新聞・週刊トマト&テレビ京都引用)